サヨナラモンスターのツールで自分の気持ちに向き合っています。
今まで「外食が出来ない」ことに対して、
恐怖、不安、嫌悪、や、
「外食恐怖」などの強いマイナス感情を抱いていました。
これは今振り返ってみてわかること(意識化出来るようになってきたこと)で、
自分が外食が出来ないことにトラウマがあることさえもずっとよくわかっていませんでした。
だけど、最近は「トラウマ」だったんだと、認めることが出来るようになってきました。
認めることが出来るだけでも心は軽くなりました。
小さい頃から、ずっと「楽しい食卓」の記憶がありません。
子供の頃は、親に睨まれながら食事をしたり、右や左を見ることも許されず、
シーンと静まり返った中で睨まれながらご飯を食べていました。
時々あるのではなく、毎日、ずっとでした。
それ以外にも家の食事で色々な苦痛があり、
僕の中では「みんなで食べるご飯」=「苦痛」「責められる」「嫌なこと」「恐怖」だったのです。
それが今でも染みついていて、簡単には取れないのです。
取ろうと思っても、取ろうと思っても、書き換えようとしても、中々消えないのです。
それだけ根深いってことです。
外食をしている時に会話をすることも苦痛で、
他の人の話し声が聞こえることも苦痛で、その場にいるだけで具合が悪くなってきます。
自分なんかがここにいてはいけない、そんな気にもなってくる。
頭ではそうではないとわかっていても、外食をすると、ネガティブ感情や思考が大量に押し寄せてきます。
このトラウマは、まだ癒えていません。
この問題は、自分にとってはかなり強烈なトラウマ記憶となっています。
ですから時間がかかってしまうのだと思うので、
後回しにして気長にやっていこうと思います。
「苦しかった食卓」
「悲しかった食卓」
「恐怖だった食卓」
これを
「楽しい食卓」に書き換えていけばよいのだということは分かっています。
(以前よりは改善はされていることは実感している)
このようにすぐマイナスに直結していたのは、
「外食が出来ないと日常生活さえも困難な部分が出てくる」のような解釈(考え方)があったからだった。
そして本当は、「楽しい家族での食事」をしたかったのです。
親を恨んだり、嫌ったこともありました。
なんで、あんな異常な家庭を築いたんだって。
だけど、それは間違っていました。
親は、異常な家庭を築こうと思って築いたわけではない。
精一杯、一生懸命頑張ったこともわかってきました。
生きるということは大変です。命にかかわる問題が続いている中、
人は、完璧にこなすことなど出来ません。
だから、
「苦しかった食卓」
「悲しかった食卓」
「恐怖だった食卓」
これは、親が一生懸命頑張っていたからこそのものだったと今ならわかります。
だから納得していますので、恨みなど消えました。
そして、過去のしみついた嫌な記憶、これは新しく更新していけば良いのです。
食事が「楽しい」と思え、喜びの感情が出てくるよう、自分が記憶を書き換えていけば良いのです。
あとは、今回の問題から、
「とりあえずは外食が出来なくてもいい、死ぬわけではない」という考えや、
「外食が出来ないことをダメだと思い込んでいる自分」がいることに気がつきました。
ダメじゃないことをダメだと思い込んでいた。
自分で自分を責めていたのだと。
外食が出来ない自分を生きている価値がない無能なものだと思い込んでいました。
ダメじゃないことをダメだと思わないことで、少し、心に余裕が生まれました。
このように少しずつ書き換えていくことで、少しずつ心が楽になってくると実感しています。
心の深い部分にある外食恐怖は少し、減りました。