「もう頑張らなくていい」
「自分なんてどうでもいい」
「自分で何とかしようとするから苦しいんだ」
「すべて流れに任せればいい」
「自我を捨てれば楽になれる」
こうした考えによって、一時的にとても楽になることはあると思います。
自分で決めなくていい。
失敗を恐れなくていい。
これからどう生きるのかを考えなくていい。
傷ついた自分とも向き合わなくていい。
人生を自分で引き受ける必要がないと思えば、その分だけ心理的な負荷は軽くなるでしょう。
しかし僕は、ここには非常に大きな危険があると思っています。
その「楽になった」という感覚は、本当に問題から解放されたことで生まれたのでしょうか。
それとも、
自分の人生を引き受ける主体そのものから降りたため、負担を感じなくなっただけなのでしょうか。
この二つは、表面上は似ています。
しかし中身はまったく違います。
そして後者であるにもかかわらず、
「これこそ悟りだ」
「これこそ執着を手放した状態だ」
「ついに正しい生き方を見つけた」
と思い始めたとき、僕は非常に危険な方向へ進む場合があると思っています。
なぜなら、自分の人生の主人公を降りるということは、場合によっては、
自分自身まで見捨てること
につながるからです。
「自分の人生の主人公」とは、世界の中心になることではない
最初に、ここははっきり分けておきたいと思います。
「自分は自分の人生の主人公だ」
というのは、
「世界は自分を中心に回っている」
「他人は自分のために存在している」
「自分だけが特別だ」
という意味ではありません。
あなたにはあなたの人生があります。
僕には僕の人生があります。
他の人にも、それぞれの人生があります。
それぞれが、それぞれの人生を生きる主体です。
ここでいう「主人公」とは、
自分が何を感じているのか。
何を信じるのか。
何を大切にするのか。
誰と関わるのか。
何を拒否するのか。
どこから離れるのか。
間違えたときにどう修正するのか。
そして、これからどう生きるのか。
こうしたことについて、最後には自分で考え、確かめ、選択する主体であり続けるという意味です。
心理学でいえば、これは「自律性(autonomy)」や「自己決定(self-determination)」と重なる部分があります。
米国ロチェスター大学の心理学研究者リチャード・M・ライアン(Richard M. Ryan)博士とエドワード・L・デシ(Edward L. Deci)博士による自己決定理論(Self-Determination Theory)では、自律性・有能感・関係性という基本的心理欲求が、人間の動機づけやウェルビーイングに深く関係するとされています。特に自律性とは、自分の行動について「自分自身がその行動を支持し、選んでいる」という感覚に関係します。
もちろん、これは「人生の主人公」という比喩そのものを研究したものではありません。
しかし、
自分の人生について自分自身が意思決定に関与していること
が、人間にとって心理的に重要であるという点では、大きく重なります。
自由には責任がついてくる
自由という言葉には、明るい響きがあります。
しかし自由には、どうしても重さがあります。
自分で選べるということは、
何を選ぶのかを自分で考えなければならない
ということでもあるからです。
判断に迷うことがあります。
選択を間違えることもあります。
失敗することもあります。
その結果を受け止め、必要ならやり直さなければならないこともあります。
だから自由には責任がついてきます。
ただし、ここでいう責任を誤解してはいけません。
自分に起きたすべての悪い出来事を、
「全部自分の責任だ」
と考えることではありません。
他人から傷つけられたことまで自分の責任にする必要はありません。
事故、病気、災害、虐待、犯罪、差別、他人の嘘や裏切りなど、自分が選んでいない出来事はいくらでもあります。
僕がここで言っている責任とは、
「起きたことが自分の責任でなくても、ここから自分の人生をどうするのかという意思決定まで完全に外部へ明け渡さない」
という意味です。
被害を受けたことへの責任ではありません。
自分の人生をこれからどう扱うかについての責任です。
主人公を降りれば、一時的には楽になれる
だからこそ、
「もう主人公なんてやめよう」
と思えば、一時的には楽になる可能性があります。
自分で決めなくていい。
未来について考えなくていい。
傷ついた心に向き合わなくていい。
間違っていることを間違っていると言わなくてもいい。
自分を守らなくてもいい。
自分自身の面倒を見なくてもいい。
「どうでもいい」
と思えば、確かに楽です。
しかし、ここで僕は一度立ち止まって考えてほしいのです。
問題を解決したから楽になったのか。
それとも、
問題に向き合う自分自身まで引っ込めてしまったから楽になったのか。
この違いです。
後者だった場合、その静けさを「回復」と呼んでしまっていいのでしょうか。
「自分さえ見捨てる」という現実逃避
自分を見捨てるというと、
「自分を嫌いになること」
だけを想像するかもしれません。
しかし、それだけではありません。
本当は嫌なのに、
「どうでもいい」
とする。
本当は傷ついているのに、
「大したことではない」
と切り捨てる。
本当は助けを必要としているのに、
「何も必要ない」
と思い込む。
本当は何かがおかしいと感じているのに、
その感覚を確認することさえやめる。
自分がこれからどうなっても、
「別にどうでもいい」
と思う。
こうした形でも、人は自分自身から離れていくことができます。
本稿では、このように自分自身の感情、価値観、必要性、境界、未来への関与を自分自身が手放していくことを、便宜上「自己放棄」と呼びます。
これは医学的な診断名として使っているわけではありません。
ここで重要なのは、
自己放棄には、ときとして「楽さ」が伴う
ということです。
もう自分の面倒を見なくていいからです。
最も危険なのは、現実逃避を「正しい道」だと思い始めること
最初は、
「もう疲れた」
だけだったのかもしれません。
そこで自分の人生への関与をやめる。
すると少し楽になる。
そして、その楽さを経験した後、
「楽になったのだから、これが正しかったんだ」
と思い始める。
ここからが怖いと僕は思っています。
「自分で考えないほうが正しい」
「自分の意思を持たないほうが成熟している」
「傷つかない人間になることが悟りだ」
「疑うのは未熟だからだ」
「自分を守ろうとすることこそ執着だ」
「自分の人生を自分で動かそうとすること自体がエゴだ」
そう考えるようになると、
本来なら、
「僕は自分を見失っていないだろうか」
という警報になるはずの変化が、
「僕は正しい方向へ進んでいる証拠だ」
へと逆転してしまいます。
現実逃避が、人生哲学へ変わってしまうのです。
僕は、ここに非常に大きな危険があると思っています。
ここで一つ、想像してみてください
たとえば、私(あなた)が誰かの嘘によって悪者にされたとします。
事実ではないことを言われました。
本当の私とは違う人物像を作られました。
周囲にも誤解されました。
私は傷つきました。
悔しかった。
本当は、
「違う」
と言いたかった。
しかしそこで、
「もうどうでもいい」
「私の人生なんてどうなっても構わない」
「主人公を降りてしまえば楽だ」
と思えば、確かに少し楽になれるかもしれません。
悪者にされても気にしない。
誤解されても放っておく。
傷ついている私の気持ちにも触れない。
何も感じなければ、苦しむ必要もありません。
では、ここで少し見方を変えてみてください。
自分の心の中に、
小さな自分
がいると想像してみてください。
そして、その小さな自分を、
私とは別の一人の子供
だと思ってみてください。
目の前に、一人の子供がいます。
その子供が、誰かの汚い嘘によって悪者扱いされています。
本当は何もしていない。
なのに責められている。
周囲にも誤解されている。
悲しんでいる。
悔しがっている。
助けを求めている。
その子供を前にして、私はどうするでしょうか。
「そんなこと大したことないよ」
「気にしなければいい」
「もうどうでもいいじゃない」
と言って立ち去るでしょうか。
見て見ぬふりをするでしょうか。
その子供を置き去りにするでしょうか。
目の前の子供に対してなら、
「何があったの?」
「ちゃんと話を聞くよ」
「事実を一緒に確認しよう」
「間違っていることがあったら直そう」
「でも、あなたを一人にはしない」
と思えるのであれば、
なぜ自分自身に対してだけは、それをしてはいけないのでしょうか。
心の中の小さな自分の「親になる」
僕がセルフヘルプ教材「サヨナラ・モンスター」で長く伝えてきたことの一つに、
心の中の小さな自分の親になってあげる
という考え方があります。
辛いとき。
悲しいとき。
怖いとき。
悔しいとき。
誰にも理解してもらえないとき。
自分まで自分を見捨てない。
外の人から否定されたとしても、
自分まで一緒になって自分を否定しない。
傷ついているなら、
「そんなことで傷つくな」
と切り捨てるのではなく、
「何がそんなに辛かったのだろう」
と聞いてあげる。
自分に思い込みがあったなら修正する。
自分が間違えていたなら認める。
事実と感情を分ける。
認知の歪みがあれば修正する。
だけど、
苦しんでいる自分そのものは見捨てない。
僕が大切だと思っているのは、そこです。
「どうでもいい」と言って立ち去ることは、本当に悟りなのか
もし親が、泣いている子供に対して、
「どうでもいい」
「そんなことは大したことじゃない」
「勝手にしなさい」
と言って立ち去ったら、僕たちはそれを理想的な親子関係とは考えないでしょう。
それなのに、自分自身に対してなら、
同じことをしてしまうことがあります。
傷ついている自分を放置する。
怖がっている自分を置き去りにする。
悔しがっている自分を無視する。
そして、
「気にしなくなった自分は成長した」
「執着を手放した」
「悟った」
と思う。
でも、本当にそうでしょうか。
自分の面倒を見ることから逃げただけではないのか。
僕は、そこを一度疑ってほしいと思っています。
見捨てて逃げることは簡単。でも、それで本当にいいのか
自分を守るのは大変です。
自分の気持ちを理解するのも大変です。
事実を確認するのも大変です。
傷ついた心と向き合うのも大変です。
間違っていたら修正しなければなりません。
必要なら誰かに助けを求めなければならないこともあります。
だから、
「もうどうでもいい」
と思ってしまうほうが簡単です。
「大したことではない」
と思えば、逃げることもできます。
でも、
楽であることと、正しいことは同じではありません。
逃げることと、手放すことも同じではありません。
感じなくなったことと、癒えたことも同じではありません。
自分を見捨てたことで静かになった心を、
回復した心だと勘違いしてはいけない。
僕はそう思っています。
何でも戦うことが「主人公」なのではない
ここには大事な補足があります。
自分の人生の主人公でいるということは、
何でも戦うことではありません。
誰かに嘘をつかれたら、必ず反論しなければならないという意味でもありません。
すべての誤解を解く必要もありません。
相手にしないほうがいい人もいます。
距離を取ったほうがいい場合もあります。
黙って去ることが最善の場合もあります。
それも、
「僕は自分を守るために、ここから離れる」
と自分で考えて選択したのであれば、立派な主体的選択です。
主人公でいるとは、
何でも戦うこと
ではありません。
自分の人生について最後まで自分が関与すること
です。
逃げるように自分を捨てたのか。
それとも、自分を守るために考えたうえで手放したのか。
外から見ると似ていても、この二つはまったく違います。
誰かに傷つけられ、最後に自分まで自分を見捨てる
ここは、僕が今回一番伝えたいところかもしれません。
誰かに傷つけられた。
誰かに悪者にされた。
誰かに否定された。
誰かに理解してもらえなかった。
そして最後に、
自分まで自分を見捨てる。
それでは、傷ついた自分は最後の逃げ場まで失ってしまいます。
だから僕は、
誰かに見捨てられても、
誰かに誤解されても、
誰かに悪者にされても、
最後の一人だけは、自分のそばに残っていてほしいと思っています。
その最後の一人が、
自分自身です。
心の中の小さな自分に、
「僕はここにいる」
「一緒に考える」
「間違っていたら一緒に直そう」
「でも、僕まで君を見捨てたりはしない」
と言えること。
それは、僕にとって、
自分の人生の主人公でいる
ということの非常に重要な意味です。
自分の人生の主人公でいることを、悪いことだと思わなくていい
ここでもう一つ、伝えておきたいことがあります。
世の中には、
「自分を人生の主人公だと思うなんて傲慢だ」
「主人公になろうとするから苦しくなる」
「自分を特別な存在だと思うのはよくない」
といった形で、「自分の人生の主人公として生きること」そのものを否定的に捉える考え方もあります。
しかし、ここには大きな混同があると僕は思っています。
自分の人生の主人公でいることと、
他人の人生まで自分中心に動かそうとすることは、
まったく違います。
「僕は僕の人生の主人公だ」
ということは、
「あなたは僕の脇役だ」
という意味ではありません。
あなたも、あなたの人生の主人公です。
僕も、僕の人生の主人公です。
それぞれが自分の人生を生きればいい。
だから、自分の人生を主体的に生きているだけで、他人の自由を侵害しているわけではありません。
誰かが自信を持って生きている。
自分の夢を追っている。
自分の価値観を大切にしている。
自分で人生を選択している。
それだけなら、本来は他人の人生とは別の話です。
その人が他人を支配したり、他人の自由を侵害したり、他人を自分の物語の脇役として扱ったりしていない限り、
「自分の人生の主人公として生きること」
自体を悪いことにする必要はありません。
むしろ研究では「主体性」と幸福・精神的健康の関係が繰り返し確認されている
この点については、心理学研究を見ると非常に興味深いことが分かります。
心理学では「自分を人生の主人公だと思っているか」という表現をそのまま使うことは多くありません。
しかし、それに非常に近い概念として、
主体性(agency)
自律性(autonomy)
人生物語における主体性
などが研究されています。
2018年、米国パデュー大学のシー・ユー(Shi Yu)氏、シャンタル・ルヴェスク=ブリストル(Chantal Levesque-Bristol)氏、前田由紀子(Yukiko Maeda)氏が発表したメタ分析では、米国と、日本・中国を含む東アジアの36の独立サンプル、合計12,906人が分析されました。
その結果、自律性と主観的ウェルビーイングとの間には、中程度の正の関連(r=.46)が確認されています。
つまり、
「自分自身の意思で選択し、自分の人生を自分で方向づけている感覚」
が強いことと、
幸福感や生活満足などの主観的ウェルビーイング
との間には、かなり明確な関連が確認されているのです。
9年間追跡した研究でも「主体性のある人生物語」と幸福が結びついていた
さらに2024年には、デンマーク・オールボー大学、米国ノースウェスタン大学、ミシガン州立大学の研究者らが、157人の成人を9年間追跡した研究を、心理学の査読学術誌『Psychological Science(心理科学)』に発表しています。
参加者は毎年、自分の人生における大きな困難について物語を書きました。
9年間で集められた人生物語は1,211件。
研究者らは、その中にどの程度、
主体性(agency)
つまり、
「自分には人生に働きかける力がある」
「困難の中でも自分自身が行為者である」
というテーマが現れているかを分析しました。
結果として、主体性などの動機的テーマが満たされた人生物語を語る傾向のある人ほど、9年間を通して抑うつが低く、ウェルビーイングが高く、さらにウェルビーイングが上昇していく軌跡を示していました。
もちろん、
「自分を主人公だと思えば必ず幸せになれる」
と研究が証明したわけではありません。
しかし、
「自分は自分の人生に働きかけられる存在だ」
という主体性のある人生物語と、心理的ウェルビーイングとの関係は、かなり明確に確認されているのです。
そして、もっと驚く研究があります――主体性が先に上がり、その後に精神状態が改善した
僕はこの研究が、今回の記事と特に深く関係していると思います。
2012年、米国の心理学者ジョナサン・M・アドラー(Jonathan M. Adler)氏は、『Journal of Personality and Social Psychology(人格・社会心理学誌)』に、心理療法を受けている47人を追跡した縦断研究を発表しました。
参加者は治療の過程で、少なくとも12回にわたり、自分自身や治療についての短い人生物語を書きました。
研究者はその中から、
「自分が自分の人生に影響を与えられる」
「自分自身で選択できる」
「自分には状況を変える力がある」
という主体性(agency)のテーマを分析しました。
そして、非常に興味深い結果が出ました。
治療が進むにつれて主体性が高まり、それとともに精神状態も改善していたのですが、
さらに時間差を考慮して分析すると、
主体性の上昇が先に起こり、
その後の精神状態の改善に先行していたのです。
一つ前の治療時点で主体性が高まると、その次の時点で精神状態が改善するという関係が確認されました。神経症傾向や自我発達などを統計的に考慮した後にも、この関係は残りました。
ここは重要です。
単に、
「精神状態が良くなったから、自分を主体的に語れるようになった」
という順番だけではなかった。
研究では、
主体性の変化が、後の精神状態の変化に先行していた
のです。
もちろん、この研究だけで主体性が精神状態改善の直接的原因だと断定することはできません。
しかし少なくとも、
「自分は自分の人生に働きかけられる」
「自分で選べる」
「自分自身が人生の行為者である」
という感覚が回復していくことが、心理的回復の中で非常に重要な位置を占める可能性を示す研究だと言えます。
自分の人生を生きようとする人を、なぜ他人が否定したくなることがあるのか
ではなぜ、
他人が自分の人生を主体的に生きようとしているだけなのに、
それを否定したり、
冷笑したり、
「そんな生き方は間違っている」
と引き下げようとしたりすることがあるのでしょうか。
ここは慎重に考える必要があります。
その人が嫉妬している。
劣等感がある。
自信がない。
と、外から決めつけることはできません。
批判には正当な理由がある場合もあります。
本当に傲慢な振る舞いをしている場合もあるでしょう。
「主人公」を口実にして他人を踏みつけているなら、当然それは別問題です。
しかし一方で心理学には、
他人の成功や上昇が、自分自身への脅威として感じられる
という現象も研究されています。
自分より上手くいっている人を見る「上方比較」は、場合によっては自分自身への脅威となり、感情や注意に影響することが研究されています。
つまり、
誰かが輝いたからといって、その人がこちらから何かを奪ったわけではない。
それでも、
「あの人が上がったということは、自分が下がった」
かのように感じてしまうことがあります。
「自分が上がる」のではなく、「相手を下げる」心理も実際に研究されている
この問題については、さらに直接的な研究があります。
心理学・組織行動研究では、
social undermining(社会的妨害)
という概念があります。
これは、相手の成功、評判、仕事、人間関係などを徐々に妨げる行動を指します。
2012年、米国ミネソタ大学などの研究者らが『Academy of Management Journal(経営学分野の主要査読学術誌)』に発表した研究では、病院職員を対象にした2時点調査と、学生チームを対象にした4時点調査の両方で、
嫉妬
↓
自分の妨害行動を心理的に正当化する「道徳的離脱」
↓
相手へのsocial undermining
という経路が確認されています。
さらに2018年の『Journal of Applied Psychology(応用心理学誌)』の研究では、
「この人は将来自分より高い地位へ行くかもしれない」
という未来の地位への脅威が嫉妬と結びつき、その嫉妬を介して相手への妨害につながる経路が研究されています。
つまり、
すでに成功した人だけではありません。
これから前へ進みそうな人。
成長しそうな人。
自分より上へ行きそうな人。
そういう人まで、場合によっては心理的脅威になることがあるのです。
だからといって「自分を否定する人は嫉妬している」と決めつけてはいけない
ここは非常に大切なので、僕自身も気をつけたいと思っています。
自分の生き方を批判する人がいたからといって、
「あの人は嫉妬している」
「自信がないから僕を下げようとしている」
と決めつける。
これをやってしまえば、今度はこちら側が相手を勝手に心理分析することになります。
それでは健全ではありません。
重要なのは、
「そういう心理経路が人間には存在する」
と知っておくことです。
つまり、
他人から否定された
=
自分の生き方が間違っている
とは限らない。
同時に、
他人から否定された
=
相手が嫉妬している
とも限らない。
だからこそ、最後には自分で確認するのです。
自分は他人を傷つけていないか。
他人の自由を侵害していないか。
自分中心の世界を他人に押しつけていないか。
そこに問題がないのであれば、
誰かが不快に感じたという理由だけで、
自分の人生の主人公の席から降りる必要はありません。
「地獄から足を引っ張る」という比喩について
昔から、
誰かが穴から抜け出そうとすると、
下にいる人がその足をつかんで引き戻す
というような比喩があります。
僕は、人間の不幸そのものを悪者にするべきではないと思っています。
苦しんでいる人。
自信を失っている人。
人生がうまくいかない人。
そういう人が他人を妨害するとは限りません。
苦しいときでも、他人を応援できる人はたくさんいます。
問題なのは、
自分が苦しい
↓
他人が前へ進んでいることが苦痛になる
↓
自分自身を立て直すのではなく、相手を引き下ろそうとする
という方向へ進んでしまう場合です。
心理学的には、先ほど紹介した社会的比較、嫉妬、地位への脅威、social underminingなどが、この比喩の一部を説明してくれます。
だから、
誰かが上へ行くことによって、
自分まで下へ行った気にならなくていい。
逆も同じです。
誰かが自分より前へ進んだからといって、
その人を下へ引き戻す必要もありません。
主人公として生きるのは、決して楽な道ではない
僕は、
「自分の人生の主人公として生きよう」
という言葉を、気楽な自己啓発として言っているわけではありません。
むしろ逆です。
自分の人生を自分で生きるのは、大変です。
自分で考えなければならない。
自分で決めなければならない。
失敗すれば修正しなければならない。
自分の未熟さも認めなければならない。
他人のせいにして逃げられない部分も出てくる。
誰も答えをくれない場所で、自分で考えなければならないこともある。
ときには孤独です。
ときには怖いです。
ときには、
「全部誰かに決めてもらえたら、どれだけ楽だろう」
と思うことだってあるでしょう。
だからこそ、
主体性を手放したとき、一時的に楽になることがある。
この記事で最初から書いてきた話と、ここでつながります。
苦しいから主人公を降りるのではなく、苦しいときほど自分のそばに残る
人生の主人公として生きる価値は、
苦しめることそのものにあるわけではありません。
苦しいから偉いのでもありません。
大切なのは、
苦しいときにも、
自分自身との関係を切らないことです。
うまくいかなければ考え直す。
疲れたら休む。
助けが必要なら助けてもらう。
間違っていれば認める。
知らなければ学ぶ。
それでも、
自分の人生を生きる責任そのものまで放棄しない。
そして、誰かから、
「そんなに自分の人生を大切にする必要なんてない」
「主人公でいようとするのをやめたほうが楽だ」
と言われたとしても、
その言葉をそのまま自分の人生の答えにしないことです。
研究を見ても、
主体性や自律性は、
人間の幸福や精神的健康と無関係なものではありません。
むしろ、かなり深く関係しています。
だから僕は、
他人の人生を侵害しない限り、
自分の人生の主人公であることを恥じる必要はないと思っています。
あなたはあなたの人生を生きる。
僕は僕の人生を生きる。
誰かが前へ進んでも、
その人を引きずり下ろさない。
自分が前へ進もうとしたときに、
誰かから引き戻されそうになっても、
その人の言葉だけを理由に自分自身を見捨てない。
自分の人生の主人公として生きることは、
誰かより上になることではありません。
他人を脇役にすることでもありません。
自分の人生から逃げず、
最後まで自分自身の人生に参加し続けることです。
そして研究を見る限り、
その主体性は、
捨てるべき厄介なものではなく、
人間の幸福や心理的回復と深く関係する大切な力なのです。
そして、この心理構造は「強制的・支配的な集団」と噛み合いやすい
ここからは、研究で直接確認されている事実と、そこから僕が考えることを分けて書きます。
「自分の人生の主人公を降りた人ほど必ずカルトに入る」
という研究結果があるわけではありません。
また、
「主体性が強ければ絶対にカルト的な集団には取り込まれない」
とも言えません。
どんな人でも、孤独、喪失、強いストレス、人生の転換期など、状況によって心理的な脆弱性は変化します。
そのうえで僕が重要だと思うのは、
自分で考える。
疑問を持つ。
外部の情報を確認する。
自分の感情を確かめる。
必要なら「NO」と言う。
必要なら離れる。
自分の人生について最後には自分で判断する。
こうした主体性を手放すことが、
強制的・支配的な集団が人を服従させていく構造と非常に噛み合いやすい
ということです。
これは、既存研究から十分に警戒する価値のある方向性だと僕は考えています。
主人公の席を空けたとき、そこへ誰が座るのか
自分の人生について、
何を信じるのか。
何が正しいのか。
誰を信頼するのか。
どう生きるのか。
を最後に判断する人は誰でしょうか。
本来、その中心には自分自身がいるはずです。
もちろん他人から学びます。
専門家の意見も聞きます。
信頼する人に相談もします。
宗教や哲学から学ぶこともあります。
しかし最後には、
「これは本当に自分にとって正しいのか」
と考える余地が残っています。
ところが、
「自分で考えることは間違っている」
「自分の意思を捨てるほど正しい」
「疑うことは未熟さの証拠だ」
「こちらに任せればいい」
となっていけば、
自分の中にあった「最終判断者」の席が少しずつ空いていきます。
僕が怖いと思うのは、
その席は空席のままとは限らない
ということです。
そこへ、
指導者。
集団。
思想。
教義。
コミュニティ。
インフルエンサー。
権威を装う人物。
「絶対に正しい答えを持っている」と主張する誰か。
そうしたものが座ることができます。
自分の人生の主人公を降りるということは、
主人公がいなくなるだけではありません。
空いた主人公の席に、別の誰かや思想が座れる状態を作ってしまう場合があるのです。
本当に怖い支配は、怖い顔をして近づいてくるとは限らない
「危険な集団」と聞くと、
威圧的。
暴力的。
異様な雰囲気。
見るからに怪しい。
そんなものを想像するかもしれません。
しかし僕が本当に怖いと思うのは、
そうではないものです。
誰が見ても危険だと分かるなら、警戒できます。
怖いのは、
危険だと分からないものです。
正しさを装っている。
善意を装っている。
優しさを装っている。
穏やかさを装っている。
救済を装っている。
自己成長を装っている。
「あなたのため」を装っている。
場合によっては、本当に親切な部分や良い部分さえある。
だから見抜きにくいのです。
日本の272人の脱会者研究――最初は「宗教勧誘」だと知らされていなかった
この点について、日本には非常に重要な研究があります。
1994年、当時の静岡県立大学国際関係学部の西田公昭氏が、日本社会心理学会の学術誌『社会心理学研究』に「ビリーフの形成と変化の機制についての研究(3)――カルト・マインド・コントロールにみるビリーフ・システム変容過程」を発表しています。
この研究では、宗教的カルトを脱会した272人への質問紙調査を中心に、教義テキスト、教義ビデオ、勧誘マニュアル、セミナーマニュアル、脱会者への面接まで分析されました。
そこで報告されたのが、
「偽装された宗教勧誘(camouflaged religious recruiting)」
です。
研究では、対象者が最初から宗教勧誘だと知って参加していたとは限らず、まず勧誘者からの温かな対応に引きつけられ、宗教勧誘だと知らないまま教義を学び始め、その後、対人魅力や現実認識への働きかけを通して信念形成が進み、後の段階になって集団の正体が明かされるという過程が報告されています。
これは今回のテーマに非常に重要です。
危険なものが、
「私は危険ですよ」
と名札をつけて近づいてくるとは限らないのです。
むしろ、
温かさ。
理解。
安心感。
居場所。
善意。
そうしたものが入口になることがあります。
支配には「明白なもの」から「非常に微妙なもの」まである
2015年、スペイン・バルセロナ大学、マドリード自治大学、サラゴサ大学の心理学研究チーム、アルバロ・ロドリゲス=カルバジェイラ(Álvaro Rodríguez-Carballeira)氏らは、集団心理的虐待(Group Psychological Abuse)の分類研究を『The European Journal of Psychology Applied to Legal Context(欧州応用法心理学誌)』に発表しました。
研究チームは科学文献のレビューをもとに分類案を作成し、集団内虐待の研究・支援経験を持つ31人の専門家によるデルファイ法を用いて検討しました。
その研究では、集団心理的虐待を、
虐待的な戦略が用いられること、
継続して行われること、
最終的に個人を服従させる目的を持つこと、
という要素から定義しています。
分類には、
感情への虐待、
絶対的・白黒的な信念体系への教化、
特別な権威への服従、
孤立、
情報の統制・操作、
私生活への統制
などが含まれています。
そして特に重要なのは、研究者らが、
集団心理的虐待には「最も明白なものから最も微妙なものまで」幅広い戦略が存在する
と整理していることです。
さらに、それらは異なる強度や順序で組み合わされ、時間をかけて虐待的要素が徐々に加えられる場合があると論じています。
つまり、
「優しそうだから大丈夫」
「穏やかだから大丈夫」
「暴力を使っていないから大丈夫」
とは言えません。
支配を見るときに重要なのは、
表面の雰囲気ではなく、
その人の自由、自律性、情報へのアクセス、人間関係、自分で考える力が時間とともにどう変化しているのか
なのです。
良い部分があるからこそ、見抜きにくいこともある
2023年、スウェーデン・ウメオ大学(Umeå University)臨床科学部門などのセシリア・ハディング(Cecilia Hadding)氏らは、思想的または宗教的なカルト的集団を離れたスウェーデンの元メンバー11人を対象とした質的研究を、査読学術誌『Frontiers in Psychiatry(フロンティアズ・イン・サイキアトリー/精神医学)』に発表しています。
この研究が興味深いのは、参加者が集団内の経験を、
「すべて悪かった」
とは語っていないことです。
良い価値観を学んだと感じた人もいました。
人との接し方を学んだと感じた人もいました。
愛情や尊重を感じた経験も語られています。
ただし、その愛情や尊重が、
集団の規則に従うことを条件としていた
という語りもありました。
これは非常に重要な点です。
有害な支配が存在する場所に、
良い経験が一つも存在してはいけないわけではありません。
優しい人がいることもあります。
楽しい時間もあります。
救われたと思う経験もあるかもしれません。
だからこそ、
「こんなにいい人たちなのだから、支配なんてするはずがない」
という単純な判断では見抜けないことがあります。
「自分自身から切り離されていく」という元メンバーの経験
同じスウェーデンの研究には、今回の記事と非常に深く重なる結果があります。
元メンバーたちは、集団の中で自分自身から疎外され、自分の感情を表現することを許されず、離れた後にも、
自分自身の価値観や感情を認識し、表現することが難しかった
と語っています。
研究では、集団を離れた後、
自分でどのように考えればいいのかを取り戻すまで時間がかかったことも報告されています。
そして回復の中で、
自分自身の価値観を取り戻す。
自分の感情へ再びアクセスする。
外部の人間関係を作り直す。
自分自身について新しい人生の物語を作る。
という過程が語られています。
これは僕が使っている、
「自分の人生の主人公」
という比喩と非常によく重なります。
支配とは、
命令されることだけではありません。
もっと深いところでは、
「私はどう思うのか」
「私はどう感じているのか」
「私は何を大切にしたいのか」
「私はどう生きたいのか」
という、自分自身へのアクセスまで弱められてしまう場合があるのです。
「楽になった」という感覚だけでは、正しさを判断できない
さらに興味深い研究があります。
2017年、フランス・ナント大学病院の精神医学・依存症研究チームのモルガン・ルスレ(Morgane Rousselet)氏らは、31人の元カルトメンバーへの半構造化面接を行い、集団への加入・滞在・離脱に関連する要因を調べました。
その研究では、カルトへの所属に、
「初期の心理的安堵(initial psychological relief)」
が伴う場合があることが報告されています。
これは非常に重要です。
「楽になった」
ことそのものは、
その方向が健全である証明にはならない
ということです。
答えが全部用意されている世界は、楽である
人生は不確実です。
自分が何者なのか。
何をすればいいのか。
未来がどうなるのか。
正解が分からないことばかりです。
米国クレアモント大学院大学の社会心理学者マイケル・A・ホッグ(Michael A. Hogg)氏らの不確実性―アイデンティティ理論(Uncertainty-Identity Theory)では、人は自己に関する不確実性を減らそうとし、明確な規範やアイデンティティを持つ集団への同一化が、その不確実性を減らす方法になり得ると論じられています。これは宗教一般を危険視する理論ではなく、人間が不確実性と集団アイデンティティをどのように扱うかについての社会心理学的理論です。
考えてみれば、
「あなたは何者なのか」
「何が正しいのか」
「誰が悪いのか」
「何をすれば救われるのか」
「どう生きればいいのか」
という答えを全部誰かが用意してくれた世界は、確かに楽です。
迷わなくていいからです。
でも、
迷わなくなったことと、
自由になったことは同じではありません。
ここからは、研究を踏まえた僕の考察です
ここまで紹介した研究は、
「自分の人生の主人公を降りるとカルトに入る」
という因果関係を直接証明したものではありません。
そこは明確に分けておきます。
そのうえで僕は、これらを総合すると、一つの重要な警告が見えてくると思っています。
自分で考える責任を放棄する。
自分の感覚を確認しなくなる。
自分の判断より外部の答えを優先する。
そのことで心理的に楽になる。
さらに、
「自分で考えないことこそ正しい」
「自分の意思を捨てることこそ成長だ」
と信じる。
この心理状態と、
人の自律性を徐々に奪い、外部情報を制限し、特定の権威への服従を求める集団
は、非常に噛み合いやすいと考えられます。
だからこそ僕は、
「楽な方向へ行ったから正しい」
という判断には注意が必要だと思っています。
本当の解放なのか、それとも自分を失っているのか
何か新しい思想、教え、コミュニティ、自己啓発、スピリチュアルな考え方、人間関係などによって「楽になった」と感じたとき、僕なら次のような点を確認します。
- 以前より自分で考えられるようになったか。それとも「考えなくていい」と言われるようになったか。
- 疑問や反対意見を自由に表現できるか。それとも疑うこと自体を人格や精神性の問題として責められるか。
- 外部の情報を自由に調べられるか。それとも特定の情報源だけを見るよう求められるか。
- 家族や友人など、その集団の外にいる人との関係を自由に維持できるか。
- 「離れたい」と思ったとき、恐怖・罪悪感・脅し・破滅の予告などで引き止められないか。
- 自分の感情を以前より理解できるようになったか。それとも自分の感情より誰かの解釈を優先するようになったか。
- 人生の選択肢は増えたか。それとも「これしかない」という世界へ狭まったか。
- 最終的に、自分で考え、自分で確かめ、自分で選び直せる人間になっているか。
大切なのは、
「何を信じているか」
だけではありません。
それを信じることによって、
あなた自身の主体性がどう変化しているのか
です。
「手放すこと」と「自分を手放すこと」は違う
人生では、手放したほうがいいものもあります。
変えられない過去への執着。
他人の評価への過度なこだわり。
すべてを自分でコントロールしようとする欲求。
こうしたものを手放すことで楽になることはあります。
でも、
執着を手放すことと、
主体性を手放すことは違います。
すべてをコントロールしようとすることをやめることと、
自分の人生への関与をやめることも違います。
自我への過剰な執着を弱めることと、
自分自身を見捨てることも違います。
ここを混同しないことが、とても大切だと思います。
健全な助けは、最後には「あなたをあなた自身へ返す」
誰かに助けてもらうことは、主人公を降りることではありません。
心理療法を受けてもいい。
宗教を信じてもいい。
先生から学んでもいい。
家族や友人に頼ってもいい。
コミュニティに所属してもいい。
一人ですべてを背負うことが自立ではありません。
重要なのは、
助けてもらった結果として、
以前より自分で考えられるようになっているか。
以前より自分の気持ちが分かるようになっているか。
以前より自分で選択できるようになっているか。
以前より「NO」と言えるようになっているか。
以前より外の世界とも自由につながれるようになっているか。
ということです。
僕は、
健全な支援とは、最終的にその人の主体性を奪うものではなく、その人自身へ返していくもの
だと思っています。
最後に――自分だけは、自分を見捨てない
世界のすべてを自分で変えることはできません。
人生には、自分にはどうにもできないことがあります。
負けることもあります。
間違えることもあります。
逃げなければならないこともあります。
誰かに支えてもらわなければ立てない時期もあります。
それでも、
自分だけは自分を見捨てない。
僕は、それが大切だと思っています。
自分が何を感じているのか聞く。
何が辛かったのか聞く。
本当に事実なのか確認する。
自分が間違っていたら直す。
誰かに助けてもらう。
必要なら逃げる。
必要なら戦わないことを選ぶ。
でも、
自分自身の存在まで置き去りにしない。
自分の人生の主人公でいるということは、
世界を支配することではありません。
自分自身を最後まで見捨てず、
自分の人生に関わり続けることです。
自由には責任があります。
その責任は、ときに重い。
だからこそ、
全部放棄してしまえば一時的に楽になることがあります。
でも、その「楽さ」が、
問題を乗り越えたことで得られた自由なのか、
それとも、
自分自身まで見捨てたことで感じなくなっただけなのか。
そこだけは間違えないでほしいと思います。
そして何より怖いのは、
自分を置き去りにしたことで得られた静けさを、
「これこそ正しい道だった」
「これこそ悟りだった」
「これこそ解放だった」
と正当化してしまうことです。
もし心の中に、小さな自分がいるとしたら。
その子が泣いているときに、
最後に手を差し伸べる人は誰でしょうか。
僕は、
その最後の一人くらいは、自分自身であってほしいと思っています。
誰かに見捨てられても、
誰かに悪者にされても、
誰かに理解してもらえなくても、
「僕だけは君を置いていかない」
と言えること。
それは甘えではありません。
世界の中心になることでもありません。
自分の人生について責任を持つということです。
自分の人生の主人公の席を、自分から明け渡さないことです。
なぜなら、
その席から自分が降りたとき、
そこへ誰か別の人や思想が座る可能性が生まれるからです。
だから僕は、
自分の人生の主人公を降りてはいけないと思っています。
少なくとも、
「逃げれば楽だから」
「何も考えなければ楽だから」
という理由で、自分まで見捨ててしまってはいけない。
最後まで、
自分の人生を生きる。
自分を育てる。
自分を助ける。
自分が間違えば修正する。
そして、自分だけは自分を置き去りにしない。
それが僕の考える、
自分の人生の主人公として生きる
ということです。
参考文献・参考資料
西田公昭(1994)「ビリーフの形成と変化の機制についての研究(3):カルト・マインド・コントロールにみるビリーフ・システム変容過程」『社会心理学研究』9巻2号、131–144。日本社会心理学会。当時・静岡県立大学国際関係学部。宗教的カルト脱会者272人への質問紙調査を中心に、教義資料、勧誘・セミナーマニュアル、面接などを分析した研究。
Rodríguez-Carballeira, Á., Saldaña, O., Almendros, C., Martín-Peña, J., Escartín, J., & Porrúa-García, C. (2015). “Group psychological abuse: Taxonomy and severity of its components.” The European Journal of Psychology Applied to Legal Context, 7(1), 31–39. スペイン・バルセロナ大学、マドリード自治大学、サラゴサ大学の研究者らによる、集団心理的虐待の分類・専門家評価研究。
Hadding, C., Semb, O., Lehti, A., Fahlström, M., Sandlund, M., & DeMarinis, V. (2023). “Being in-between; exploring former cult members’ experiences of an acculturation process using the cultural formulation interview (DSM-5).” Frontiers in Psychiatry, 14, 1142189. スウェーデン・ウメオ大学などによる、思想的・宗教的カルトの元メンバー11人を対象とした質的研究。
Rousselet, M., Duretete, O., Hardouin, J. B., & Grall-Bronnec, M. (2017). “Cult membership: What factors contribute to joining or leaving?” Psychiatry Research, 257, 27–33. フランス・ナント大学病院などの研究者による、元カルトメンバー31人を対象とした研究。
Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2000). “Self-determination theory and the facilitation of intrinsic motivation, social development, and well-being.” American Psychologist, 55(1), 68–78. 米国ロチェスター大学の心理学研究者による自己決定理論の代表的論文。
Hogg, M. A., Adelman, J. R., & Blagg, R. D. (2010). “Religion in the face of uncertainty: An uncertainty-identity theory account of religiousness.” Personality and Social Psychology Review, 14(1), 72–83. 米国クレアモント大学院大学の社会心理学者らによる、不確実性と集団アイデンティティを扱った理論研究。宗教一般の有害性を主張する研究ではない。
