人と一緒にいるのに、心は孤独なまま。誰かを信じたいと思って近づいたのに、かえって寂しさが深くなる。そんな経験をした人はいるのではないでしょうか。
僕にも、信じられるものを求めて外を彷徨っていた時期がありました。今日は、中学生の頃に好きだった一曲から、僕がサヨナラ・モンスターで伝え続けてきた「自分が自分の親になる」ということについて書きます。
この記事で伝えたいこと
愛や信頼を求めて彷徨った時間も、人生の一部です。その経験を通して、僕は、自分の気持ちを受け止め、守り、考え方を育てていく役割を、自分自身も引き受けることに気づきました。「自分がいるから、一人の時間も大丈夫」と思える土台を、内側に少しずつ作っていく。それが、ここでいう「自分が自分の親になる」ということです。
中学生の頃に聴いていた、MAGIC「さらば青春の光」
僕が中学生の頃に聴いていて、好きだった曲の一つに、MAGIC(マジック)の「さらば青春の光」があります。その歌詞に、次の一節があります。
本当の愛を求め 街をさまよった日々
MAGIC「さらば青春の光」より。作詞:すぎやまこうたろう。歌ネットの歌詞掲載ページ
でも人を愛することは 孤独になるだけ
MAGIC「さらば青春の光」(シングル・バージョン)を、YouTubeで聴くことができます。
この言葉に、自分の人生と重なるものを感じる人もいると思います。はっきり言葉にして考えていたわけではなくても、心のどこかで、似たような寂しさを抱えていた人です。
ここから書くのは、この歌詞を僕自身の経験に重ねて考えたことです。歌の作者の意図を説明するものではありません。
本当の愛や、心から信じられるものを求めて
育った家庭で、本当の愛がどういうものなのか、よく分からなかった。家族と一緒にいても、どこか寂しかった。だから、自分が求める愛や、安心して信じられるものを、外へ探しに行く。
悲しみを抱え、その悲しみを隠しながら、いろいろな人と出会い、いろいろな経験をしていく。そういう人生を歩んだ人もいるでしょう。
僕の場合、求めていたのは「本当に信じられるもの」でした。けれども、信じようとして人に近づくほど、心は孤独になっていきました。僕が当時求めていたような、心から安心して信じられる関係を、そこで育てることができなかったのです。
寂しいから誰かと一緒にいる。でも、一緒にいても寂しい。すると、もっと誰かといなければならなくなる。人数が増えても、心の中の孤独は埋まらない。僕は、そんな彷徨いについて考えています。
だからといって、外へ求めたことや、彷徨ったことが、全部だめだったという話ではありません。それも人生の一部であり、経験です。その道を通ったからこそ見えてくることもあります。
僕が非行に走った背景には、家庭での苦しさがあった
僕が育ったのは、宗教的な価値観の強要や、心への支配が強く働く、僕が「カルト的機能不全家庭」と呼んでいる環境でした。僕はそこに抵抗し、十代の頃から非行に走りました。
当時の僕が知っていた不良の中には、本当に困っていて、家庭の中に居場所がなく、反発しながらでなければ生きていけないような子どもがいました。単に格好をつけたかった、という説明だけでは分からないものがあったのです。
僕の知る範囲では、小学生の頃からシンナーを吸っている子どもがいたり、親自身も吸っていて、子どもに買いに行かせるような家庭もありました。これは、僕の記憶にある当時の環境の話です。昔の子ども全体や、非行の原因すべてを説明しているわけではありません。
家庭にいられない。信じられるものがない。だから外へ出る。ところが、その先で出会う人も、似たように傷つき、何かを求めていることがある。
互いに、相手に満たしてもらいたいものを抱えたまま集まっても、それだけで安心や信頼が育つとは限りません。百人集まっても、千人集まっても、人数だけで解決する問題ではなかった。僕は、自分の経験からそう考えるようになりました。
もちろん、家庭で受けた影響を理解することと、自分がした行動の責任を引き受けることは、両方必要です。僕が背景を書くのは、その行動に至った流れを理解し、今の選び方を変えるためです。
有名になれば、孤独は埋まるのだろうか
孤独を埋めようとして、有名になりたいと思う人もいるでしょう。注目されること、認められること、たくさんの人に求められることが、心の穴を埋めてくれるように感じるのです。
けれども、人の評価を心の支えのすべてにすると、その評価が変わったとき、自分の足場まで揺れてしまいます。有名になった先には、称賛だけでなく、批判や炎上、悪者として扱われる可能性もあります。
中には、複雑な問題の責任を一人に集中させる、スケープゴート(身代わりの悪者にすること)のような扱いもあるでしょう。ただし、批判を受けた人すべてがスケープゴートなのではなく、実際の行動の責任は個別に見る必要があります。
そして、自分がその椅子に座らされないように、別の誰かをその立場へ追いやろうとする人もいるのではないか。僕は、人間関係の中にある、そうした汚さについても考えてきました。
外の世界で評価を勝ち取り続けることに、自分の安心を預けていたら、終わりのない競争になることもある。それを一通り見たり経験したりする中で、丸ごと興味がなくなる時があるのだと思います。
昔の世界を離れても、心が離れるまでには時間がかかった
僕は途中で、更生しようと思って、昔の世界から離れました。今では、不良っぽいものへの憧れも、昔の不良文化を大人になって楽しむことへの関心も、僕の中にはほとんどありません。
ただ、そこまで来るのは簡単ではありませんでした。生活の上で離れることと、心の奥でその価値観に反応しなくなることは、同じ時期に起こるとは限らないからです。
僕の場合、心の深いところから関心が薄れ、反応の仕方が変わったと思えるまでには、二十年ほどの時間がかかりました。これは僕自身の経過であり、誰にでも必要な年数を示しているわけではありません。
恐怖、上下関係、組織の力、強い信念。そういうものに触れて受けた影響は、場所を離れた瞬間に消えるとは限りません。昔のことなのに、今のことのような感覚で反応してしまうこともある。
僕は、それを「洗脳的な影響」と表現することがあります。ここでは、厳密な診断名や特定の理論としてではなく、恐怖や強い圧力の中で取り込んだ価値観が、後まで心を縛る感覚を指しています。
「囚」という字を見ると、人が囲われているように見えます。僕にとって「心の囚われ」は、そのイメージに近いものでした。身体は外に出ていても、判断や反応が、昔の囲いの中に残っているのです。
昔の話をすること自体で、その人が囚われているとは決められません。僕が見つめたいのは、今の選択まで昔の価値観に引っ張られているのか、ということです。この離脱と成長については、著書『宗教洗脳の手口の1つ、それは心を閉じ込めること。』にも、自分の経験を書いてきました。
大人になってから、昔の憧れを経験する人もいるのかもしれない
今の社会を見ていると、不良っぽさや、乱暴でいい加減な振る舞いに憧れる空気が、以前より表に出てきたように僕には見えることがあります。メディアの中で、そのようなものが自然に扱われていると感じることもあります。
昔はできなかったことを、大人になってから経験している人もいるのかもしれません。ここでいう「できなかったこと」には、自分の意思で選ぶ、反発する、周囲の期待から外れる、といった意味も含めています。
本当は自由にやってみたかった。でも、できなかった。その未処理未消化の気持ちを、後から表現している可能性もある。これは僕の一つの見立てです。
もちろん、バイクや服装、言葉遣いの好みだけで、その人の過去や心理は分かりません。また、自由を取り戻すために、誰かを傷つける非行を経験する必要もありません。
「勉強はダサい」「長い文章は読みたくない」といった言葉を見聞きすると、僕は、学ぶことや深く考えることから離れる方向に、自由を求めているのかなと感じることがあります。ただ、文章の長さの好みと、学ぶ意思は別のことです。
僕自身は、そのような世界を早くから経験し、離れ、長い時間をかけて関心が変わってきました。だから今は、その見た目よりも、「自分は本当は何を求めていたのか」という内側の問いに関心があります。
彷徨いの森で気づいた、「自分で作るしかない」
本当の愛を求めて彷徨う。心から信じられるものを求めて彷徨う。けれども、どこへ行っても、求めているものに届かない。そんな人生の彷徨いの森で、ふと気づくことがあります。
「ここにもない。じゃあ、どうすればいいんだろう。自分で作るしかないんだ」
僕にとって、それは大きな転換でした。他人が自分を満たしてくれることを待つだけでなく、自分の内側にも、愛や信頼の土台を作っていくということです。
この転換を、僕は「テイカーからギバーへ」、奪う側から与える側への移行とも表現します。寂しくて助けを求める人を、奪う人だと決めつけたいのではありません。僕自身の姿勢の変化を表す言葉です。
「自分にないものを、誰かに埋めてもらわなければ」から、「自分も、それを育てる側になろう」へ。そして、まずは自分自身の気持ちに、理解と安心を与えるところから始める。
そうして育てたものを、無理のない範囲で人にも渡せるようになる。僕が言いたい「与える」は、自分をすり減らしてまで尽くすことではなく、自分も相手も大切にできるものを作ることです。
自分が自分の親になる――気持ちを聴き、認知を育て直す
これが、僕がサヨナラ・モンスターで長くお伝えしてきたことです。
自分が自分の親になる。
子どもの気持ちを丁寧に理解しようとする親のように、自分の中にある寂しさ、悲しみ、怖さ、怒りを聴く。「そんなことを感じるな」と途中で切り捨てず、その気持ちが何を訴えているのかを理解していくのです。
僕が「気持ちを最初から最後まで感じる」「感じきる」と言うとき、大切にしているのは、自分の感情を途中で置き去りにしないことです。一度に全部の記憶を掘り返したり、苦しくても我慢して続けたりする必要はありません。休みながら、扱える分だけでよいのです。
そして、気持ちを受け止めながら、そこにある認知も見直していく。認知とは、出来事をどう受け取り、意味づけるかということです。
例えば、「相手の機嫌が悪い。だから僕が悪い」「見捨てられないためには、何でも受け入れなければならない」。子どもの頃には、そのように考えることで、どうにか関係の中にいようとしたことがあるかもしれません。
今の自分は、そこで立ち止まって確かめられます。何が実際に起きたのか。本当に全部、自分の責任なのか。相手の機嫌と、自分の価値は同じなのか。今は、距離を取ることや、助けを借りることも選べないだろうか、と。
僕が「子どもの認知を、大人の認知へ」と表現したいのは、当時の限られた選択肢の中で身につけた見方を、今の知識や状況から、より正確で自分を守れる見方へ育て直すことです。子どもだった自分を、未熟だったと責めるための言葉ではありません。
一つの感情だけでなく、似た場面に結びつく記憶、考え、意味のまとまりに、少しずつ気づいていく。そのまとまりごとに理解が変わると、別の場面での選び方も変わることがある。僕は、自分の中でそうした変化を積み重ねてきました。
難しいからこそ、一行から始めてよい
言葉にすると簡単に見えても、これは難しいことです。長年「これが自分だ」と思っていたものが、恐怖の中で取り込んだ価値観だったと気づくこともあるからです。
以前の記事「『これが自分だ』と信じている人の多くは、まだ気づいていないのかもしれない」で、僕は「9割ほどは気づかないのではないか」と書きました。これは人口統計ではなく、それほど難しいと僕が考えている、という意味の主観的な見立てです。AIが似た数字を挙げても、統計的な裏付けにはなりません。
だから、できない自分を責める必要はありません。例えば今日、人と会った後に寂しくなったなら、「本当は、最後まで話を聞いてほしかった」と一行だけ書いてみる。その声を、自分まで無視しない。そこから始めてもよいと思います。
今は書けなければ、休むことや保留することも選べます。強い苦痛が続くときは、一人で抱えず、信頼できる人や心理・医療の専門家の支えを借りることも、自分を守る選択です。
自分への理解と、行動を変えることは両立する
心理学には、自分への思いやりを意味する「セルフ・コンパッション」という概念があります。クリスティン・ネフ(Kristin Neff。米国テキサス大学オースティン校の教育心理学研究者)は、2003年の理論論文で、自分への優しさ、人間に共通する不完全さの理解、感情に飲み込まれず気づく姿勢を、その要素として整理しました。ネフの原著論文
さらに、ジュリアナ・ブレイネス(Juliana G. Breines)とセリーナ・チェン(Serena Chen。いずれも発表当時、米国カリフォルニア大学バークレー校の心理学研究者)による2012年の実験研究には、大学生91人を分析した実験があります。過去の過ちについて自分への優しさと理解を書いた群は、自分の長所や好きな趣味を書いた群より、償いや再発防止への意欲を高く回答しました。ブレイネスとチェンの原著論文・実験2
測定したのは、その場の自己申告による意欲です。長期的な行動変化や、孤独の解消、サヨナラ・モンスターの効果を検証した研究ではありません。それでも、自分を理解する姿勢と、行動の責任を引き受けようとする意欲が、両立しうることを考える材料になります。
ここで僕が大切にしているのも、その両立です。傷ついた自分の気持ちは聴く。けれども、その感情のまま人を傷つけてよいことにはしない。内側では感情を受け止め、外側では行動と境界を選ぶ。この二つを一緒に育てることが、僕の言う「自分の親になる」の大切な部分です。
一人の時間にも、「自分がいる」と思えるように
自分の内側に、理解してくれる存在を育てていく。自分が自分を守り、気持ちを受け止め、間違えたときには修正する。その積み重ねが、僕にとって、彷徨いから抜け出していく道でした。
そうすると、一人の時間にも、「自分がいるから」と思える土台が少しずつできていきます。寂しさが二度と生じなくなるという話ではなく、寂しくなったときに、自分を置き去りにせずにいられるということです。
誰かを信じ、愛を受け取り、人と支え合うことも大切です。その関係の中にいる自分にも、安心や信頼を育てる役割がある。自分の内側の見方は、何を選び、どんな関係を続けるかにも関わってきます。
だから僕は、本当の愛や信じられるものを、自分の内側にも作っていくことを伝えたいのです。自分の内側を変えれば、他人の加害や外の問題まで消える、という意味ではありません。現実の環境を整え、必要な距離を取りながら、自分との関係も育てていくのです。
彷徨っていた自分も、悲しみを隠していた自分も、今の自分へつながっています。その自分の声を、今度は僕自身が聴いていく。
自分が自分の親になる。僕にとって、それは本当の意味で、自分の人生を歩き始めるためのスタートラインでした。
関連書籍
この文章の背景にある、僕自身の経験や考えを深く知りたい方には、次の著書もあります。
- 『宗教洗脳の手口の1つ、それは心を閉じ込めること。――宗教二世の苦しみと信念。そして人は心理的に成長する。』:育った環境の影響、そこから離れること、孤独と自己理解について書いた本です。
- 『子供が非行に走る原因の殆どは「親」と「家庭環境」――過去に非行に走った僕だからわかること。非行予防と対策』:非行の背景と、更生、自分の心の管理者になることを、経験から考えた本です。書名は著者の表現であり、非行の原因を家庭だけに限定する人口統計として紹介しているものではありません。
いずれも菅原隆志のKindle版です。僕の経験・思想を知るための資料として紹介しています。
参考文献・関連資料
- MAGIC「さらば青春の光」。作詞:すぎやまこうたろう、作曲:山口憲一。歌ネットの掲載ページ。本文では、今回の話の出発点となった二行を引用しています。
- ネフ(米国の教育心理学研究者、2003年)。自分への思いやりの概念を整理した理論論文(Self-Compassion: An Alternative Conceptualization of a Healthy Attitude Toward Oneself)。『自己とアイデンティティ(Self and Identity)』2巻、85–101頁。DOI:10.1080/15298860390129863。
- ブレイネス、チェン(発表当時、米国カリフォルニア大学バークレー校の心理学研究者、2012年)。自分への思いやりと自己改善への意欲を調べた四つの実験(Self-Compassion Increases Self-Improvement Motivation)。『パーソナリティと社会心理学の紀要(Personality and Social Psychology Bulletin)』38巻9号、1133–1143頁。DOI:10.1177/0146167212445599。本文では実験2の結果と限界を紹介しました。
- 菅原隆志(2026年10月9日)。「これが自分だ」と信じている人の多くは、まだ気づいていないのかもしれない。自己理解の難しさについての本人の考察。「9割」は調査結果ではありません。
資料の最終確認:2026年10月16日。本文の体験談は僕自身の記憶・説明、社会の傾向や人の内面についての見立ては僕の考察です。「自分が自分の親になる」は僕のセルフヘルプの考え方を表す言葉として使っています。
- 1. 歌ネットの歌詞掲載ページ https://www.uta-net.com/song/42981/
- 2. YouTubeで聴くことができます https://www.youtube.com/watch?v=20DESCqYlwM
- 3. 『宗教洗脳の手口の1つ、それは心を閉じ込めること。』 https://www.amazon.co.jp/dp/B0BY6NZ4P5
- 4. ネフの原著論文 https://self-compassion.org/wp-content/uploads/publications/SCtheoryarticle.pdf
- 5. ブレイネスとチェンの原著論文・実験2 https://self-compassion.org/wp-content/uploads/publications/selfimp.motivation.pdf
- 6. 『子供が非行に走る原因の殆どは「親」と「家庭環境」――過去に非行に走った僕だからわかること。非行予防と対策』 https://www.amazon.co.jp/dp/B0B3766C6Y

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