下記はサヨナラ・モンスターのモニターさまの体験談です。否定されることへの過剰な恐怖を抱えていましたが、その恐怖が減り、怒りや悲しみも減り、落ち着いて過ごせるようになったとのことです。否定されることへ恐怖を抱えている人は読んでみて下さい。参考になると思います。
女性・Sさま
私は、「モンスターの欠片1つ1つとサヨナラ」を選びました。
他人の目を気にするようにという教育、元彼の精神的DVにより、他人に否定されるということを過剰に怖がっていた私は、自分の気持ちを正直に伝えることがでませんでした。上手く同調して話しているつもりでも、相手の言葉の裏を深く考え、否定されたと思い、悲しんでしまっていました。
親しい人には気持ちを伝えることができましたが、軽く「そうかな?」と言われたり、その人の意見を伝えられると、否定されたと思い、悲しむだけではなく、怒ってしまっていました。
自分のためにも、友人や大事な人のためにも、意見や感情を怖がらずに、正しく伝えられるようになりたい。そう思い、この本を開きました。
自分の気持ちを文章にして書き出していくにつれ、自分でも何が本当の「私の気持ち」なのかわからないほど、建前で覆われていたのが、ゆっくりと紐解かれていくような心地になりました。
幼い頃から、他人の目を気にするようにと教育を受けていたことと、元彼からの精神的DVが原因であるとは、元々理解していたつもりでしたが、あまり思い出したくない記憶だったために、それの何が私の口を塞いで、過剰な恐怖を生むのかを考えたことはありませんでした。しかし、私の様々な感情を紐解いていくうちに、必然的にその記憶と向き合うことになりました。それは、思っていたほど嫌なことではなく、「私の気持ち」を知るための良い記憶に変えていけました。
私は、他人の目を気にするというのを、他人に良い人だと思われることだと思っていたのです。良い人は、とても綺麗な感情を持ち、綺麗な行動をする人だと思っていました。そうして、綺麗ではないことは、だめなことだと思いこみました。しかし、同時に、自分が綺麗ではないことを理解していたのです。そして、その「本当の私=だめな私」が相手にバレているのではないかと、脅えていたのです。それが私の感じていた、否定されることへの過剰な恐怖であることを知りました。
そうして、「とりあえず書き出していって、感情などをまとめて、知っていく」という行程を続けていくことで、綺麗ではないことは、だめではないと擁護できるようになりました。完璧に清廉潔白な人なんていない。そして、それは綺麗ではないということでもない。人間らしい、個性だと思えるようになりました。逆に、相手の言葉の裏を深く考えるというのは、相手を思いやれるという長所ではないかとも考えるようになりました。
すると、人間らしい「本当の私」を表現するのはまだ難しくても、人間らしい他人の感情、他人の個性を受け入れられるようにはなりました。今までより、怒ることも悲しむことも減り、落ち着いて過ごせるようになりました。
大事な人や家族にかけられる言葉が何であっても、本当は綺麗ではないのに、綺麗を演じているという自覚があった私は信じられませんでしたが、素直に受け止められるようになったのです。そして同時に、相手は「本当の私」をわかってくれていたのだと、気づくことができました。
他人の目を気にするようにという教育、元彼の精神的DVにより、他人に否定されるということを過剰に怖がっていた私は、自分の気持ちを正直に伝えることがでませんでした。上手く同調して話しているつもりでも、相手の言葉の裏を深く考え、否定されたと思い、悲しんでしまっていました。
親しい人には気持ちを伝えることができましたが、軽く「そうかな?」と言われたり、その人の意見を伝えられると、否定されたと思い、悲しむだけではなく、怒ってしまっていました。
自分のためにも、友人や大事な人のためにも、意見や感情を怖がらずに、正しく伝えられるようになりたい。そう思い、この本を開きました。
自分の気持ちを文章にして書き出していくにつれ、自分でも何が本当の「私の気持ち」なのかわからないほど、建前で覆われていたのが、ゆっくりと紐解かれていくような心地になりました。
幼い頃から、他人の目を気にするようにと教育を受けていたことと、元彼からの精神的DVが原因であるとは、元々理解していたつもりでしたが、あまり思い出したくない記憶だったために、それの何が私の口を塞いで、過剰な恐怖を生むのかを考えたことはありませんでした。しかし、私の様々な感情を紐解いていくうちに、必然的にその記憶と向き合うことになりました。それは、思っていたほど嫌なことではなく、「私の気持ち」を知るための良い記憶に変えていけました。
私は、他人の目を気にするというのを、他人に良い人だと思われることだと思っていたのです。良い人は、とても綺麗な感情を持ち、綺麗な行動をする人だと思っていました。そうして、綺麗ではないことは、だめなことだと思いこみました。しかし、同時に、自分が綺麗ではないことを理解していたのです。そして、その「本当の私=だめな私」が相手にバレているのではないかと、脅えていたのです。それが私の感じていた、否定されることへの過剰な恐怖であることを知りました。
そうして、「とりあえず書き出していって、感情などをまとめて、知っていく」という行程を続けていくことで、綺麗ではないことは、だめではないと擁護できるようになりました。完璧に清廉潔白な人なんていない。そして、それは綺麗ではないということでもない。人間らしい、個性だと思えるようになりました。逆に、相手の言葉の裏を深く考えるというのは、相手を思いやれるという長所ではないかとも考えるようになりました。
すると、人間らしい「本当の私」を表現するのはまだ難しくても、人間らしい他人の感情、他人の個性を受け入れられるようにはなりました。今までより、怒ることも悲しむことも減り、落ち着いて過ごせるようになりました。
大事な人や家族にかけられる言葉が何であっても、本当は綺麗ではないのに、綺麗を演じているという自覚があった私は信じられませんでしたが、素直に受け止められるようになったのです。そして同時に、相手は「本当の私」をわかってくれていたのだと、気づくことができました。